オープンソースとは何かを知るにはエリック・レイモンドが書いたものを最低でも読む必要があるらしい。しかし、それもしないで自らの独断と偏見で以下オープンソースについての議論を展開(追記)

オープンソースは何故に素晴らしいか?この発想自体がそもそもいけないのかもしれない。素晴らしいというよりもオープンソースでなくちゃいけないんだと何故か思うのだ。この直感を信じたいし、論理的に説明したいと思う。

まだ表現が十分ではない。オープンソース?それは今や普通なのだ。自分にも世のIT技術者にとっても当たり前過ぎる事なんだけど、それを伝える事こそが大切なのに十分にその内容が伝わらないのは何故か?それを最近考える。

日医IT宣言におんぶにだっこ状態の意識が問題?伝わっていないという事に危機意識が必要かもしれない。そもそもオープンソースとはソースが公開されているというような感じの言葉なのだが全く違うのだ。

パッケージソフトとの違いで意味を伝えなければならない。オープンソースが素晴らしいというような事を伝えるのではなく、医療界に今だのさばるオープンソースでないものとの違いを明確にしなければならない。

「変更したい箇所」がソフトウェアに出てきた時に違いが明確になる。オープンソースならば出来る人間さえいれば即対応可能だがパッケージの場合はほとんど不可能である事がほとんどで時間をかけてようやく完成したと思ったら莫大な請求にびっくりする。

それで結局今ある機能を「我慢して」「しぶしぶ」使う事になるのだ。「ITは本当に使えない」という思いをつのらせながら…。そして、これでバグでも出ようものなら爆発寸前の状態…という経験を持たれている院長も」いるのではないか。

オープンソースである事によって何が変わるかというと使うものと作るものとの垣根がなくなるという事なのではないか。

一緒になって作っていく。だから、「素晴らしい」というよりも「面白い」と言った方が良いかもしれない。否そんな事を言っているからダメなのだ。当然の事柄なのだ。それが当たり前なのだが当たり前にならないのがパッケージソフトの世界なのだ。

完全に作業分担されていて、それは恐らく作る方でもそうなのだ。幾つかのセクションに分かれていて、他のセクションの事は知らぬ存ぜぬの世界でここにまた色々な問題が発生するのだ。ある意味、パッケージソフトは導入された時点で死んでいる。「お前はすでに死んでいる」というやつだ。ソフトウェアは生き物なのだ。バラバラにされたら生きていけない。

誰かが言っていた。全ての問題を解決してくれる素晴らしい存在のような顔をしてやって来て、その価格も法外なものであるいが「パッケージソフトはゴミ以外の何物でもない」と…。だから、医療のIT化は進まずにIT化への不信感だけが大きくなっているのではないだろうか?

最大の問題はクローズなソフトを作っている会社が倒産して、そのソフトを面倒見る人が誰もいなくなった時に起こる。オープンソースでも同様の問題は起こり得るがソース自体は開示されているので他の誰かが引き継ぐ可能性は十分ある。というよりサポートしている人間は他にもいるという事なのだ。

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