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電子カルテでまず問題になるのはインターフェースである。入力がキーボードなのか?マウスなのか?タッチパネルなのか?最近では音声入力というのもあるが、このインターフェースで使い勝手は決まる。

ITの世界ではキーボード→マウス→タッチパネルと変遷しつつあるが電子カルテの話をすると、やはり手書きの方が良いという話になる。ならばという事なのであろうか「手書き電子カルテ」を開発している会社があるのだ。タッチパネル志向は確かに流行であるが何処まで出来るかは程度があって「くせのある字」まで認識出来るという事になるとどうであろうか?そして、勿論ORCAと連携する。手書き入力を研究している大学と連携しながら手書き文字の認識能力を飛躍的にアップさせているらしい。

確かにsiriなどの音声入力は驚くべきものがあるが手書き文字の認識率も現在驚くべき成長をしているようで、それこそキーボードやマウスなしでペンだけで全ての入力が出来てしまうというものらしいのだ。人はキーボードやマウスで入力を行っていたが結局またペンに戻るというこのなのであろうか?

電子カルテは今だ戦国時代。実に色々な電子カルテが存在する。「待てば待つほど良いものが出来て来る」と何処かの先生が言っていたが、どのメーカーも電子カルテ商戦を展開している。何故ならORCAが出て来てレセコンでは勝負にならなくなったからなのだ。クラウドやタッチパネル型端末など花盛りである。

問題はこの電子カルテ戦国時代を制するものは一体何なのかという事である。その答えの一つがこのインターフェースの問題にあり「手書き電子カルテ」にあるのではないかという気がしたのだがどうなのであろうか?これはまた今後のITの方向性についての問題とも言えるのではなだろうか?

人はコンピュータとのやり取りでも人と人の関係と同様に結局手書きや音声に戻るというのは未来予想としては面白いと考えた。

日医標準レセプトソフトは何故にDebian(現在はUbuntu)が使われているのか?Windowsでなくても、Linuxが良いならRedhatでも良かったのではないか?三洋メディコムのようにTurboLinuxでも良かったのではないか?何故にDebianだったのか?Debianは特定の企業に依存しない世界的なボランティア組織なのだ。

富士通のホームページとか見ると分かるがDebianなどのFreeOSは全く動作保証外でORCAプロジェクトに対しても何の考慮もされていないのが良く分かる。全国でもう1万以上の医療機関に導入されて使われているのにだ。これは富士通だけではなく他のメーカーについても同様なのだ。儲からないばかりか、自らの事業を危うくするものには関係しないのが得策だからであろうか。

Debianは誰でも差別なく無償で使う事が出来て、与えられているソフトウェアである。お金があっても無くても。社会的にどのような位置にあろうと。何処の国のひとでも本当にコンピュータさえあれば自由に出来る神様から与えられたようなソフトウェアなのだ。

敵対される原因はコピーレフトと言われるライセンス体系の違いによるものであるのかもしれない。Debianはこのフリーという考え方に最も拘ったディストリビューションなのだ。コピーレフトの世界では利益を問題にする資本主義の原理が全く通用しない世界だ。そこでは皆金儲けの為に働いているのではない。

インターネットから生まれた新しいコミュニティと現実の人間関係。しかし、より素晴らしいものは前者より生まれ成長して行ったのがオープンソースだった。

この資本主義世界で医療が金儲けではなく万人の為にあるとした場合に医療に使われるコンピュータソフトウェアは利益を追求するものなのか、それとも誰もが自由に使えるものなのかと考えた場合には後者としか考えざるを得ない。

上記のような理由だったのか?真相は良く分からないが新しい希望ある未来を目指すには勇気ある正しい選択ではないか。「よくぞやってくれた」というのが初めてORCAプロジェクトを知った当時の偽らざる私の気持ちであった。

エリック・レイモンドのオープンソースの解剖学四部作のうち「伽藍とバザール」が発表されたのが1998年だった。「日医IT宣言」はその3年後だ。当時の時代の流れを受け入れた結果だったのかもしれない。オープンソースの解剖学四部作については「オープンソースの考え方を知りたかったら、何時かは読まなくてはならない」と誰かのブログに書いてあった。これを読む事は「日医IT宣言」を正しく本当に理解するに辿らねばならない道なのかも知れない。

オープンソースとは何かを知るにはエリック・レイモンドが書いたものを最低でも読む必要があるらしい。しかし、それもしないで自らの独断と偏見で以下オープンソースについての議論を展開(追記)

オープンソースは何故に素晴らしいか?この発想自体がそもそもいけないのかもしれない。素晴らしいというよりもオープンソースでなくちゃいけないんだと何故か思うのだ。この直感を信じたいし、論理的に説明したいと思う。

まだ表現が十分ではない。オープンソース?それは今や普通なのだ。自分にも世のIT技術者にとっても当たり前過ぎる事なんだけど、それを伝える事こそが大切なのに十分にその内容が伝わらないのは何故か?それを最近考える。

日医IT宣言におんぶにだっこ状態の意識が問題?伝わっていないという事に危機意識が必要かもしれない。そもそもオープンソースとはソースが公開されているというような感じの言葉なのだが全く違うのだ。

パッケージソフトとの違いで意味を伝えなければならない。オープンソースが素晴らしいというような事を伝えるのではなく、医療界に今だのさばるオープンソースでないものとの違いを明確にしなければならない。

「変更したい箇所」がソフトウェアに出てきた時に違いが明確になる。オープンソースならば出来る人間さえいれば即対応可能だがパッケージの場合はほとんど不可能である事がほとんどで時間をかけてようやく完成したと思ったら莫大な請求にびっくりする。

それで結局今ある機能を「我慢して」「しぶしぶ」使う事になるのだ。「ITは本当に使えない」という思いをつのらせながら...。そして、これでバグでも出ようものなら爆発寸前の状態...という経験を持たれている院長も」いるのではないか。

オープンソースである事によって何が変わるかというと使うものと作るものとの垣根がなくなるという事なのではないか。

一緒になって作っていく。だから、「素晴らしい」というよりも「面白い」と言った方が良いかもしれない。否そんな事を言っているからダメなのだ。当然の事柄なのだ。それが当たり前なのだが当たり前にならないのがパッケージソフトの世界なのだ。

完全に作業分担されていて、それは恐らく作る方でもそうなのだ。幾つかのセクションに分かれていて、他のセクションの事は知らぬ存ぜぬの世界でここにまた色々な問題が発生するのだ。ある意味、パッケージソフトは導入された時点で死んでいる。「お前はすでに死んでいる」というやつだ。ソフトウェアは生き物なのだ。バラバラにされたら生きていけない。

誰かが言っていた。全ての問題を解決してくれる素晴らしい存在のような顔をしてやって来て、その価格も法外なものであるいが「パッケージソフトはゴミ以外の何物でもない」と...。だから、医療のIT化は進まずにIT化への不信感だけが大きくなっているのではないだろうか?

最大の問題はクローズなソフトを作っている会社が倒産して、そのソフトを面倒見る人が誰もいなくなった時に起こる。オープンソースでも同様の問題は起こり得るがソース自体は開示されているので他の誰かが引き継ぐ可能性は十分ある。というよりサポートしている人間は他にもいるという事なのだ。

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